▼朝倉遷都について2019/09/07 23:19 (C) 蛇谷治山工事
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九州支店の朝倉の寮を新築してお祓いをしてもらった時に地元の神主さんが、朝倉はかつて日本の首都だった事があり由緒正しい場所である、と言っていたのでどういう事なのか調べるようにと宿題をもらいましたのでこの場を借りて発表したいと思います。
事のおこりは645年に中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺した事から始まります。この大化の改新により天皇家が実権を握ります。その15年に朝鮮半島で戦争が起きます。その頃朝鮮半島は3つの国に分かれていましたが唐と新羅が同盟を組んだ事により情勢はががらりと変わります。まず百済が滅ぼされ、百済の王子が日本に亡命します。そして日本は百済を支援して百済を再興させる決定をします。その頃、中大兄王子は皇太子で天皇は母の斉明天皇です。斉明天皇は西国の豪族を徴発しながら博多に向かい、661年に朝倉の宮に入ります。これが、朝倉の遷都、朝倉橘広庭宮です。しかし、朝倉に入って2ヵ月後に斉明天皇は病気で亡くなります。後をついだ中大兄王子は天智天皇となり、朝倉の宮で指揮をして博多から3万人の軍隊を朝鮮に送り込みます。しかし、唐、新羅連合軍に大敗します。(白村江の戦い)反撃を恐れ中王兄皇子(天智天皇)は博多の防御に回ります。大宰府を作ったり東国の武士を守りにつかせたりします。これが防人です。唐、新羅の連合軍は高句麗を滅ぼしいよいよ日本に攻めてくる可能性が非常に高まった時になんと、唐と新羅が戦争を始めます。このため、日本に攻めて来る可能性が低くなったので667年に天智天皇は朝倉を引き払い大津の宮、滋賀県に遷都して京都あたりに帰っていった。それまでの7年間朝倉が日本の首都だったという事です。
その朝倉橘広庭宮があったとされるのが
ここです。
寮から車で10分ぐらい、山田の現場からは5分ぐらいの距離です。
そしてこの池を挟んですぐ側にゆかりの朝闇神社がありますがめちゃくちゃ怖いです、名前も怖いし朝6時にもかかわらず超暗い、誰もいません。観光地ではないです。写真を撮りに行ったのが朝だから良かったですがもし夕暮れとかなら非常にヤバいと思われます。不用意に行かない方が良いと思います。