ヤマガタンver9 > 般若心経

Powered by samidare

▼般若心経

まあ、このところ般若心経に触れたのであるが、
朝のYBCラジオ、「武田鉄也の今朝の三枚おろし」の話題になっているから、
それが終日頭の中を巡っているのである。

無とは何か、
あるものはあって、無い。
無いものなくて有る。

老いる事もなければ死する事もなく、
老いて死する事もなくならない。

意味を調べるに当たり、何と何と、
これは理解できるのである。
深く理解できるのである。

全て理解できるのであり、この考えは以前から我が中にあった。・・・気がする。


若かりし頃、家を飛び出し、人生に迷った。
お金も持たず、ジムニーと犬と釣り竿、キャンプ道具だけを持ってあてのない旅に出たつもりであったが、現実は甘くなく、燃料代も食費も無くなり、この高畠町に居ついてしまったのであるが・・・・。

親との確執や、失恋、生きる目的に疑問を持ち、ただ、その日を暮らすのであった。


なぜ生きるのか、
なぜ生まれてきたのか、
なぜ死ぬのか、

生きると言う事の意味を知りたかったのである。

青年期に多くが患う病なのだろう。


楽天的な人間ではあったが、人との付き合いは明るく、棲みかに戻れば死ぬ事ばかり考えていた。


数年そうあった。


歩けば答えが見つかるのだろうか・・・。
高畠での就職口を2年でやめ、九州から歩いてみた。
山にも登ってみた。

分からんのである。何も分からない。


有る時、テレビである和尚が人生についての相談に、こう言っているのを耳にした。
「人は何故いきるのかぁ〜?
  そりゃ〜生まれてきたんだからしょうがねぇじゃないかぁ〜
  死ぬまで生きるだけよ〜。」

その一言で悟った。
全てを悟った気がした。

生き、認識する全てを悟った気がした。
救われた気がした。

有るものは無く、無い事はあるのである。
人間が認識し得る全ては、あって、ないのである。

その中で、俺たちは生きているのであり、認知し合っているのである。
そして、これは無い事なのであり、
俺が、彼岸にわたる時に、そのすべてを知る事になるのだろう。

そう、俺は、俺であるうち俺であり、
俺が悟りそのものになった時に、全てを知り、知り得たものは無であるという事なのだろう。

あわてる事はない。
いつか全てに平等に知らされるならいであろう。

僧莎訶 ソワカ=めでたし
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
ページTOPへ戻る