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▼1.朝日町ワインの歴史

1.朝日町ワインの歴史/
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お話 : 白田重明氏(朝日町ワイン総務部長)

〈朝日町ワインの歴史〉
 朝日町ワインの前身である山形果実酒製造有限会社は昭和19年(1944)に創業している。本社は山形市宮町にあり、工場が農協の大谷支所の所にあった。当時は軍の保護を受けてぶどう酒を作っていた。ぶどうに含まれる酒石酸が結晶すると「酒石」というきれいな結晶を作り、それが無線機の一つの部品になった。
 戦争が終わり必要なくなると、今度はサントリーの赤玉ポートワインの原料を作っていた。ところが、昭和50年頃に甘口ワインの需要が減り、納められなくなった。農家を守るのが農協の使命ということで、ぶどう酒を瓶に詰めて「サンワイン」として売ってみたが、飲めたものじゃなかった。
 私は昭和50年に農協に入り、町と共同出資のぶどう酒工場に勤めるようになったが、その頃の農協の宴会では、酒は豊龍、ビールはアサヒ、残るのはいつもサンワイン。なにしろポートワインは、砂糖と香味料と色素を入れて作るものだったので、大量の安いぶどうを原料にしていた。農家もたくさん成らせないと収入にならなかったので、あまり良いぶどうではなかった。それをそのまま瓶詰めして売ったから酸っぱくて飲めなかった。管理も悪いので、酢酸の菌がワインのアルコールを食べて繁殖し、酢の酸っぱさになった。それがワインだと思ってみんな飲んでいた。
 当時の白田要衛門組合長から、ワインが酸っぱくならない方法と美味しくなる方法を東京で勉強してこいと言われて行った。いろんな先生に習ったが、「科学的な方法よりも、問題は原料のぶどうにある」ということを教えられた。当時は一反歩から4〜5tのぶどうを成らせていたが、それではぶどうは小豆色位にしかならず黒く熟さない。完熟しないから酸っぱい。収量を半分の2t位におさえることを薦められた。
 さっそく農家の皆さんに価格を倍にして作ってもらった。量が少なくても単価が高ければ、経費も掛からないので農家にも好都合。そのように改善して昭和54年頃から良いぶどうが作れるようになり「朝日町ワイン」が生まれた。平成2年には、電話がきても名のりづらい「山形果実酒製造有限会社」の社名を改め、呼びやすい「有限会社朝日町ワイン」に変更することができた。
 その間、昭和50年頃からいろいろな農林水産省の補助事業をいただいて仕込み倉や貯蔵庫を整備できた。平成12年に試飲のできるワイン城と周りのぶどう畑を整備して、ついにワインを作っている場所という雰囲気になってきた。おかげさまでオープン以来徐々に観光客も増え、繁忙期の4月〜11月で2万5000人位いらしてもらえるようになった。売店の販売額も増えている。ワインの売れない時代だが、求め安い価格でおいしいワインを提供でき、会社としても流通と違ってマージンを取られないので大変良い施設となっている。
(お話 : 白田重明さん 平成22年2月)
続き

白田重明氏(しらた・しげあき)
昭和32年(1957)生まれ。昭和50年に上山農業高校を卒業し山形朝日農協に就職。山形果実酒製造(有)に出向し、国税庁醸造試験所(東京都)へ研修。翌年研修を終了し、ワイン醸造に取り組む。以後、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカなど数回のワイン海外研修を重ねる。国産ワインコンクールの審査員を第1回(平成15年)より4年間務める。有限会社朝日町ワイン総務部長。山形県ワイン酒造組合・事業推進委員長。

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