▼原田城その12016/03/07 18:43 (C) Atelier Li-no
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実家の裏は原田城になる、最近町の各種イベントでたびたび出没する、ゆるきゃら、『虎駒』
幼名虎駒、伊達輝宗の命により、虎駒が原田家の嗣子となることを命ぜられ、御字を賜って宗時と称し、左馬之助と名付けられる。原田家第17代当主となった。天正11年(1583年)にはわずか18歳にして原田城の城主を継いだ。剛直な性格にして勇武の士であったといわれ、才気に富み、各所の戦いにおいて顕著な戦功をあげ、輝宗やその子・政宗の厚い信頼を受けた。
天正19年(1591年)、豊臣秀吉による奥州再仕置きによって伊達氏が米沢を召し上げられ、岩出山に移封となると、宗時も原田城から離れ政宗に従った。
文禄元年(1592年)、秀吉よる朝鮮出兵では、政宗に従って渡海するが、文禄2年(1593年)に釜山にて風土病を患う。御暇を賜い帰船したが、病が益々重くなり釜山浦近くの島に滞留して対馬国まで戻ったが、そこで病死した(釜山浦で死去したという)。29と言う若さで没している。
二代後にあたる原田甲斐宗輔は仙台藩伊達家の家老となり、1970年のNHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』の主人公となり樅ノ木は原田家の菩提寺である東陽寺にある。 樅の木は原田家の愛木である。
昭和53年9月実家に帰省したときの写真があり投稿、原田城南側の石碑から撮影、2016年2月同じ場所で撮影したのと比較すると、松の木は虫にやられ、本丸にあった大きな3本杉も無くなっている、本丸のところ原田城止の横に草木塔の石碑が平成4年に建てられている。4枚目は本丸跡から南側方向を望む、2016年2月雪の少ない早朝、朝日がきれいだったので撮影した。