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▼米沢城址(よねざわじょうし)

米沢城址/
暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられる、米沢城(松岬城あるいは舞鶴城とも称された。)の城跡で、現在は本丸と二の丸の一部が公園となり、濠内には上杉神社・稽照殿(宝物殿)・上杉謙信公像・上杉鷹山公像などがある。


▼米沢城祉(現松が岬公園)
〜長井氏以来、伊達・蒲生・直江・上杉の諸氏の居城した城址跡

暦仁元年(1238)長井時広の築城と伝えられ、松岬城と称した。時広は源頼朝の重臣大江広元の次男で、奥州侵攻の軍功により文治5年(1189)長井庄地頭となる。長井氏治世191年に及ぶ。

康暦2年(1380)伊達氏8代宗遠(むねとお)が、長井氏8代広房を滅ぼして長井庄を領した。15代晴宗が天文17年(1548)米沢城に移った。17代政宗はこの城で生まれた。政宗は、天正19年(1591)豊臣秀吉により岩出山に移封。伊達氏治世212年。

天正19年(1591)より慶長3年(1598)まで、蒲生氏郷(うじさと)の一族郷安(さとやす)が城主となる。

慶長3年より上杉氏領となるが、初めは上杉景勝公の重臣直江兼続が城主となり、慶長6年(1601)上杉景勝公が城主となる。明治2年の版籍奉還まで272年間、上杉氏が城主であった(上杉氏2代景勝公より14代茂憲公まで)。舞鶴城と称す。

明治6年、城が取り壊され、明治7年、公園として市民に開放された。昭和27年より市都市計画として公園に整備、昭和32年10月都市公園の設置を受けた。四周を濠(幅20〜36m・延長約800m)に囲まれ、桜(200本)に包まれた桜の名所ともなっている。

中央に上杉神社、濠外東方に松岬神社、同南方に上杉記念館(旧上杉伯爵邸)・市立児童会館がある。

上杉謙信公像・上杉鷹山公像をはじめ、上杉神社稽照殿(宝物殿)・春日神社・福徳稲荷神社・招魂碑・上杉謙信公祠堂跡・曦山公碑・伊達政宗生誕の地標柱等がある。

伊達氏時代には本丸の正門は北にあり、東は裏門であった。慶長6年(1601)上杉景勝公が米沢30万石の領主となって米沢に入部以来、重臣直江兼続が城の造営を図り、三の丸を設けた。本丸の広さ約2万8,000?F、二の丸約8万?F、三の丸は旧市街地の大半を占めた。上杉氏は舞鶴城と称した。二の丸には役所、世子御殿、寺をおいた。本丸は、正門を東にとり、濠に大橋(長さ27m、幅5.5m)をかけた。本丸周辺は濠(深さ4〜6m、幅26〜36m)を巡らし、高さ4mの堤を築き、その上に塀または長屋を建て矢狭間を設けた。本丸東北隅と北西隅の高台には三階櫓(東北のものは高さ13.4m、梁間11m、矢狭間上階8m、中階28m、下階41m)があり、南堤中央に月見櫓、西側に倉庫を設けた。東南隅高台には御堂を設け、上杉謙信公の遺骸を奉安した。

明治に入り、城を「破却するの法」によって明治6年には解体され公園となる。同9年には御堂に安置している謙信公の遺骸を上杉御廟所に移しお城はすべて形をなくす。
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