ヤマガタンver9 > 館長裏日誌 令和6年6月26日付け

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▼館長裏日誌 令和6年6月26日付け

■一遍伝説の話
 一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。
 地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。
 弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。
 京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。
 正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。

■狩野派について
 狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。
 狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。
 狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。
 
■源五郎の話
 源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。
 元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。
 家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。
 このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」
 こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。
 この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。

2021/06/26 13:00 (C) 最上義光歴史館
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