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▼直江兼続の生涯 2 上杉家の危機

 2年あまり続いた御館の乱では、謙信時代に保っていた領土の一部を失うなど、上杉家は勢力を衰えさせてしまいます。この状況のなか、天下統一を目指す織田信長は、加賀(石川県南部)から能登(石川県北部)・越中(富山県)へと軍勢を進めており、さらには、北越後の新発田重家と手を結び、上杉家に対し反乱を起こさせます。
 天正10年(1582)、織田軍は武田領への侵攻を開始し、たったひと月あまりで武田家を滅亡に追い込みます。続いて織田軍は、支配下に治めた旧武田領からも越後への侵攻を開始し、越中、信濃(長野県)、上野(群馬県)から越後を包囲しました。
 兼続も景勝に従い、各地での防衛戦に出陣しますが、多方面から押し寄せる敵軍に、しだいに追い詰められていきます。ここに上杉家は存亡の危機を迎えることになりました。

 ところがこの時、織田家重臣の明智光秀が主君の信長に謀反を起こし、京都の本能寺にて信長は命を落とします。主君を突然亡くした織田軍諸将は、越後への侵攻を取りやめ、それぞれ自分の領地へと引き上げていきました。この本能寺の変により、上杉家は危機を脱し、態勢を整えることができたのでした。
 謀反を起こした光秀は、織田家重臣の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に討たれ、織田家筆頭家老の柴田勝家と秀吉との間で、信長の後継者争いが起こります。景勝は、秀吉と同盟を結び、北陸に勢力を張る勝家と対峙します。この同盟交渉で手腕を発揮したのが兼続でした。

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